馴れ合いについてちょっと考えてみようじゃないの

id:tsagg:20030511 ・ インベンティブマニア2003年5月21日付けより。

辞書で「馴れ合い」を引いてみると


なれあい ―あひ 0 【▼馴れ合い】
事前に示し合わせて事を運ぶこと。ぐる。
与野党―の質疑」

三省堂提供「大辞林 第二版」より


とのことです。
ちなみに私は「馴れ合い」をお互いの馴れ合った関係により不正をなあなあで済ませてしまうというような意味でとらえていたんですけど微妙に違うんですね。
   
テキストサイト等における「馴れ合い」の定義はそれともまた違い、
お互いの関係に甘えて、面白いものを書こうとしなくなる。
→仲良くなってしまえばそこまで面白くなくても当人が書いたというだけで十分興味深いものになってしまうことがある。
三者への配慮がおろそかになる
→自分がよく知っている人間に重きをおいてしまい、無関係である閲覧者がわからないことも平気で書くようになる。
意味のわからない文中リンクなどがこれにあたる。
などが挙げられるのではないでしょうか。
  
これだけ見ると「馴れ合いってほんとやーねー」みたいに感じてしまいそうだけども、新しい人たちと知り合って、気が合って、仲良くするのはそれはそれは楽しいことです。
他に楽しいこと、夢中になれることが見つかればサイトがおろそかにになるのは当然の流れで、それを責めることはできないと思う。
トツカさんが言う

文章を書く、ということはほとんど自分の内側の喪失感を埋めるようなものなので、現実生活で満ち足りちゃってるとか、忙しくて充実してるとか、馴れ合って楽しいとか、そういう感じだと文章を書く気がなくなるんじゃないかと思います。というか必要がない。
  
そういった意味でも「馴れ合い」というものは必要条件であって、十分条件ではない。「馴れ合い」で満たされない人は必ずサイトに戻ってくる。それは現実生活で満たされない人がサイトを始めることと同じことだと思います。
にほぼ同意見で、仮に最初は違う目的だったとしても友達ができて、そっちの方が楽しくなって満たされてしまえば、インターネットの意義が自分を吐き出すアウトプットから、友達の情報を知るインプットへと変化してしまうことは十分考えられることです。